日本の塩専売制が与えた影響は? 塩専売制に関する出来事を時系列に並べてみた

塩の文字

江戸時代以降、日本では塩の藩専売が行われていた歴史があります。しかし、全国的な塩専売制が行われたのは1905年~1997年であり、現代でも塩専売制の影響が残っています。

塩と健康を語るには「塩専売制」の歴史を無視することはできません。なぜ現代人が体の不調を抱えるようになったのか、いかに塩の質が人間の健康に重要だったのか……。今回は、塩専売制の歴史を時系列に並べました。

参考文献を掲載していますので、ご興味ある方は文献から理解を深めるのもオススメです!



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できる限り正確な情報を掲載するように努めておりますが、誤差があることをご了承ください。
詳細を知りたい方は参考文献をご覧ください。

◆1898年(明治31)塩専売制の提唱

当時の農商務大臣が塩業改良方策のために、専売の実施が提唱された。

◆1904年(明治37)塩専売反対同盟を結成

塩専売法が成立するまでの期間、政府は2つの案を提案した。

① 塩に消費税を設ける案
② 塩の販売を政府の専売にして日露戦争(1904年~1905年)の財源にあてる

東京塩問屋や塩商人らで結成された塩専売反対同盟は、いずれも悪法として反対した。

◆1905年(明治38)6月1日に塩専売制が施行

日露戦争の軍事費を求めていた明治政府が塩消費税を含む「非常特別税法案」を第20回帝国議会に提出。
大蔵省がそれを受けて議案を作り、議会で塩の専売制が議決される。

しかし、「消費税」に対して庶民は反対する姿勢を見せたため、塩業協会は「専売制」を求める建議を提出してしまった。
結果的に、塩に特別な消費税を設けるのではなく、専売制施行に方針が変わった。

当時、専売制については賛否が分かれた。生産者は専売制に賛成、問屋や小売店は反対。
庶民は、塩の値段が高騰したことで生活が苦しくなった。
塩の値段が2.5倍になったという資料も。新聞では「まるで人頭税だ」と叩かれた。

塩の生産は許可制になり、自由に塩を売買(製塩、輸入、販売)できなくなった。
塩を販売できるのは大蔵省専売局だけになった。
ただ、当時は塩の質に変化はなく、それ以前と同じように塩田で自然海塩が作られた。
しかし、この頃から塩田の段階的な整理・統合が始まった。

◆1910年~1911年(明治43~明治44)第1次塩業整備を実施

塩田を廃止する塩業整備に関する法律が1910年に施行。「第1次塩業整備」が実施された。
製造者と塩田を整備し、塩の価格を引き下げた。温泉熱利用などの特殊な製塩方法のほとんどが廃止された。

◆1912年頃 食用だけでなく工業用にも塩が必要になった

大正時代(1912年~)になると経済や化学工業の発展、人口の増加。塩は食用だけでなく、工業用にも使用されるようになった。

◆1919年(大正8)収益専売から公益専売に転換

国内塩業の保護・育成、ソーダ工業等の発展のため、保障や免税の必要も生じ、見込んだ塩の専売益金は減少。
第一次大戦後(1914年から1918年)の経済情勢の変化にともない、
1919年以降は塩専売の収益だけでなく、塩の需給と価格の安定を目的とする「公益専売」に転換した。

◆1929年~1930年(昭和4~昭和5)第2次塩業整備を実施

政府は製塩業改善のために、全国の主要産地に技師を派遣。
塩の増収や品質改善、生産費削減等の製塩指導を行った。

◆1939年(昭和14)輸入もできず、塩の値段が高騰

ソーダ工業の発達し大量の塩が必要となり、国産の塩だけは追いつかなくなった。
第二次世界大戦中(1939年9月1日~1945年9月2日)から戦後まで、塩を輸入できなかったため塩は高級品になりました。

◆1942年(昭和17)塩は割当配給制に

太平洋戦争の影響で塩の生産が激減。輸入が困難になったため、塩は割当配給制になった。
非常手段として、自家用の塩の製塩が認められた。

◆1945年(昭和20)輸入品に対抗するために安価な塩を目指す

戦後、塩が大量に必要な状態に。安い輸入塩に対抗するために、国産塩の製造方法を根本から見直す。
古くから伝わる広い塩田での製塩は、たくさんの人と燃料が必要な非効率的なものとみなされた。



◆1949年 大蔵省から塩専売公社へ

大蔵省から塩を扱うためだけの塩専売公社に権限が移管され、
1949(昭和24)6月に政府直営の専売事業を行う日本専売公社が設立。

◆1950年(昭和25)イオン交換膜式の研究開始

せんごう工程への立釜の導入が本格化。
1950年代にはポンプを利用する「流下式枝条架塩田」が開発され、生産性が著しく向上した。
さらなる効率化のため「イオン交換膜式」の研究が始まる。

◆1955年(昭和30年)流下式塩田からイオン交換膜へ切り替え

高度成長期(1955年~1973年)に入ると塩は工業面でも重要視され、安定した供給が求められるようになった。
工業による海水の汚染が進んだため、日本専売公社は「流下式塩田」を廃止して「イオン交換膜」への全面切り替えを計画した。

◆1959年~1960年 イオン交換樹脂膜法でコスト削減に成功

「イオン交換樹脂膜法」を使う製塩が導入された。
イオン交換樹脂膜法で作れば、伝統的な塩田で作る塩の半分のコストで製塩できた。
塩業整備臨時措置法に基づく「第3次塩業整備」が行われ、約2,000ヘクタールの塩田が姿を消した。

◆1965年(昭和40)頃 塩田からイオン交換膜樹脂法へ

従来の塩田に替り、イオン交換膜樹脂法が増えていった。

◆1971年(昭和46) 塩田廃止。イオン交換式に移行する

2月に「塩業の整備および近代化の促進に関する臨時措置法」(いわゆる「塩業近代化臨時措置法」)が国会を通過し、4月16日に施行。
瀬戸内地方などに多数あった塩田が整理された。
次の7社が塩専売公社から委託されて製塩を行うことになった。

・長崎県(崎戸塩業)
・岡山県(ナイカイ塩業)
・岡山県(錦海塩業)
・兵庫県(赤穂海水工業)
・香川県(讃岐塩業)
・福島県(新日本化学工業) 

生産コストを低減し、輸入塩にたいして価格競争力をつけるのが目的。
製塩方法は「イオン交換式」に切り替わった。

年内にすべての塩田が廃止され、
研究用の塩田や、伊勢神宮(三重県)の祭祀用の塩をとる御塩塩田、能登(石川県)にある観光塩田などの特殊な塩田以外で塩を作れなくなった。

これまでの専売制とは異なり、「塩業近代化臨時措置法」は塩の品質に大きく影響を与えた。
これまで伝統的な塩を作ってきた塩田を廃止し、日本政府は「精製塩」と呼ばれる塩と作った。


精製塩は、海水からナトリウムだけを取り出し純度99%を超える塩化ナトリウムの塩。
政府は利益を追求するために「詳しい品質については開示しなかった」という情報もある。



南條 ゆみ

大阪出身、東京在住。事務職を経てフリーランスライターの活動開始。食や健康の記事を担当するなかで、体にやさしい暮らしについて模索を始める。自身の体調不良と向き...

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